OHTAKI'S MODERN CARTOON

日常が変わるということのウレシサカナシサの巻

いや、引っ越したのが12月のはじめで、それなのにまだ段ボールの箱が全部開いてないという感じの悪さですが、なにしろ日常は容赦なくやってくるんで、そのままツツガナク暮らしています。

ナニゲに無視される段ボールたち。
テーブルの下に突っ込まれたまま、あたかもそういう家具のように、はみ出た部分のみを使用されはじめたソファ。

マーそういう環境でも日常は日常でして。
そんなのにはすぐ慣れてしまう。そんなのはすぐ愛せる。
 

ひっこしの当日、わたしはこわくてこわくて、泣きそうでした。
これから、日常が変わってしまうのがわかっている。
たった今から、いままでの日常とはちがう日常が待っている。

日常が変わるというのは、恐いことだ。そうは思いませんか。
あたらしい時間は、こわい。
あたらしい時間は、おもしろいんだけど、それは、こわいの向こう側にあるな、わたしの場合。わたしは、こわがりなのです。
とりあえずは、こわい。こわくて、この日常の終わりがかなしくて、膝ががくがくしました。

業者さんがやってきてどんどん部屋の中がからっぽになっていくときは、もうおもしろくてたまんなかったです。それはもうあたらしい日常がはじまっちゃったからで、これはもうたいていのことがおもしろくてたまらない。興奮また興奮です。

わたしはそういうところはニワトリなのです。脳がちいさくてすいません。

引っ越してすぐに締め切りはやってきましたし、原稿の依頼も、催促も、夜も、朝も、空腹も、すべてが引っ越し前とおなじようにやってきました。
わたしの居る場所が違うのと、机の位置が違うのと、窓から見えるものがちがうのと、聞こえる音がちがうのと、原稿を送る手段が違うのと。まあ、あれこれちがうわけですが、これがあたらしいわたしの日常なんだなあ、なんて思いました。

そのうち味噌が無くなって、あたらしい味噌をこの町で買う。豆腐もおいしそうな豆腐屋さんで買ってみる。引っ越し前に行きつけだったおいしいお米やさんのが無くなって、新しい場所のスーパーでとりあえず買ったお米を炊く。野菜は中華街でターツァイやへちまを買って、町内にいい八百屋さんを発見したので、ここの蓮根やらえんどう豆やらでお膳をこしらえる。老舗や新進のパン屋をためして、気になる佇まいの肉屋では顔の大きなおじさんから自家製ハムを買ってみたりする。

新しい場所の食べ物で身体が満たされていく。

町中にあるたくさんの階段をかたはしから登っては降り、新しいはじめての道をさがして歩いて迷子になって。あたらしい風景を見て、あたらしい方向感覚、あたらしい土地勘を脳に蓄積していく。

こうやって身体の中が新しい場所で手に入れたもので構築されていく。
日常を再構築していく。

なんだかね、シミジミと興奮します。一個一個が見逃せない。ホームページなんか更新してる場合じゃない。ハハハ。

野菜はどこで買っても産地がおなじならおなじ野菜だし、味噌はメーカーがおなじなら中身もおなじだし、たぶんまったくたいしたことじゃないのかもしれない。
でもわたしはそういうちびっちゃい変化を愛するほうなんで。

そんな日常の中、こんどは突然チチオヤが倒れて死にかけまして。

病室のチチオヤはもうあんまり生きてるとは思えませんでした。
涙が出て、でもそれは悲しいとかそういうことの前に、びっくりして泣いているのがじぶんでわかって、へなちょこな自分になんともはやな気持ちになる。
結局、ここでも、とつぜん日常が変わってしまうことに、おびえて泣いている。

当のチチオヤにとっても、ハハオヤにとっても、アニにとっても、アニのツマにとっても、アニのコドモ1やアニのコドモ2にとっても、突然、日常が変えられてしまったわけで、みんなが、おどろいたり、怯えたり、困ったり、迷ったり、していました。

でも、それもあたらしい日常が始まったということにすぎない。健康なチチオヤの居た日常はとりあえず終わって、あたらしい日常はそうじゃないということ。

そんなことを、病室で眠るチチオヤを見ながら、考えていました。

チチオヤは現在回復中です。それもまたひとつひとつがなにかのはじまりでなにかの終わりでもあって、こわくてつらくてあたらしくておもしろい日常なのではないかと思っています。
そんなこと言ってる場合じゃなくても、わたしには、そうです。
やっぱり、脳がちいさくてすいません。

 

tulipa@mamioh.com *MAMI OHTAKI*

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