OHTAKI'S MODERN CARTOON

 終わらせることのできるヨロコビの巻

神田北陽さんという講談師のかたの講談を聞くために高座に通うようになってもうずいぶんたちます。このひとの講談はもうじつにおもしろい。おもしろくないときもあるにはあるけど、まあ、そのときは、ご本人の「あー今日は駄目だー」と変化していく顔色を見ていればいいので、それも悪いけれどおもしろい。

このひとの講談は新作もいいですけど、わたしは古典もすきですね。
なんというかね、この人の講談をきいていると、ふっと、あちらの風景を見ている自分がいるわけです。むこうの世界に連れて行かれちゃう、と言ってるんですが、まあそんなかんじ。槍を引きずる砂煙や、着物を端折って駆けていく若者のふくらはぎや、座敷の襖に描かれた雀の絵と墨の匂い、階段をじりじりと昇っていく汗に光る馬の首筋、なんかを、見てしまう。見たような気になってしまう。

わたしはひとつのことが気にいると、そればかし味わう傾向にありまして、北陽さんの講談が好きだからといって他の講談師のかたの高座も行くかというと、サッパリ行かないわけです。北陽さんの講談だったらけっこう聞いていますが、演目も登場人物の正式名称も、ろくに覚えていません。覚えようという気がないんでしょうな。だからぜんぜん講談という文化には詳しくはありません。ただ北陽さんがやったはなしならたいていあたまの中に映像として残っている。落語や浪曲もすこし行きますが、やっぱり贔屓の落語家や浪曲師がいてあんまりそのひとたち以外は見に行きません。たまに贔屓目当てで行った会で、あらこのひと面白いと思うとそのひとの高座も伺うようになりますが、おもしろいもので、上手なんだろうけど、もうほんとうにサッパリつまんない噺家さんというのもいて、このひとたちの噺を聞いていても、まったく見えてこない。つーまんない。

マー不思議なもんです。

そんな北陽さんが今回、師匠の名前「山陽」を襲名なさいました。三代目です。すばらしく、晴れがましいことです。
それに伴ってのいろんな会が行われて、出来る限り出席させていただいたのですが、なんというのでしょうか。胸いっぱいですわ。

いろんなことを思い出します。
わたくし、ソノツド、ちょっと涙ぐんでしまいました。
親戚のかたなんかだともっと万感迫って「あの小僧がこんなに立派になって」みたいに泣いてらっしゃる。
襲名が決まってからこの数カ月、北陽さんのことを好きなみんなが、北陽さんの、北陽さんであった時代のことや、北陽さんの名前になる前のことを思い出して、シミジミしていたんだと思います。

なんだかお葬式に似てるね。なんてA嬢と話し合ったもんです。

北陽さんは8月11日から山陽さんになります。
北陽さんである時期は終わって、あたらしい名前になって、あたらしい時間がはじまるんだと思います。

まあやっぱりお葬式ですわな。

なにかを終わらせることができるというのは、すばらしい、うれしいことなんじゃないか。しばらく忘れてましたけどまた思い出してしまいました。

わたしは仕事を次から次ぎに入れてしまって収集がつかなくなっていることがおおいですが、たぶん、終わらせることが好きなんじゃないだろうかなあ。
ひとつ、仕事が終わる。そしたら新しい仕事がはじめられる。わたしは時間の長くかかるしごとが苦手です。飽きる。すんません。でも飽きるんだよー。いつまでも同じ世界観のなかにいなくてはいけない、このつまんなさ。気分は刻々と変わっていくのにおなじ場所に立ち止まりつづけなくてはいけない。ああ、いやだいやだ。

わたしは、あんまりじぶんの終わった時間がすきなほうじゃないです。10代、20代、もうどうだっていいですわい。たのしいおもいでも無いわけじゃないけど、戻りたくもないし、べつだん恋しくもない。懐かしがって話すことなんかたいしてない。
常に今がいちばんしあわせで今がいちばんだいすきだ。

それはたぶん、今はいつも終わりつつある時間だからなんじゃないか。
そして、一番手直に終わらせることのできる自分が、仕事の中にある。

そんなわけで、「終わらせるヨロコビをハリアイに生きている」という手垢のついたようなことを改めて自分の言葉で感じたりしているわけですが、若くして一回自分を終わらせて、新しい自分を始めることになった北陽さんを、ちょっと羨ましく、でも相当なことだなあ、とも思ったりもするのでした。

北陽さん、おわりとはじまり、おめでとう。
 

 

tulipa@mamioh.com *MAMI OHTAKI*

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